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矢向駅を乗降駅として使って川崎市幸区に住んでいました。新鶴見操車場は昼夜兼行で夜中でも貨物列車入れ替えのSLの音が響いていました。C11とかC12。矢向駅にもこれらのSLはいて、武蔵小杉まで通学していた私立小学生だった自分は親しくなった機関士さんに乗せてもらったこともあります。夢見が崎は加瀬山とも呼ばれていて、大きな慰霊塔とお寺と古墳以外は森でした(今は動物公園みたいになっているらしいですが)。名称の由来は、太田道灌が城を建てようとして(ひょっとしたら江戸城?)いたが夢で兎が兜を持ち去ったのでやめたとかいう話しを聞いたことがあります。陸橋付近の道の狭さは相変わらずですね。陸橋の北側は田圃でザリガニをとってました笑。懐かしい少年時代を思い出しました。ありがとう!
成瀬巳喜男の東宝作品「めし」(1951)、実家に帰る原節子の下車駅として矢向駅が登場しています。当時の看板の字体は「矢向驛」ですが、看板の位置は85年の写真でも変わらず、現在に至るまで駅の外観の大枠は70年前とほとんど変わっていません。南武線の駅、結構変貌した駅もありますが、矢向には戦後直後の形が残っているようです。
コメント欄で知った、矢向だけ川崎じゃないなんて!勉強になりました。😄乗り換えで鹿嶋田←→新川崎は通勤で使用していましたが、矢向は電車でも自動車でも通過するだけでしたね。でも駅舎の雰囲気が昔懐かしい感じで好きですよ。😄
富士通の敷地も操車場だったので、バスが通っていたのは、橋の突き当たりの右側だったと思います👍
あのあたりまで操車場だったのですね。貴重な情報ありがとうございます。今度、改めて確かめに行ってきます
現在も、あのバス道は健在ですね👍
夢見々崎と国鉄新鶴見寮が見えます。
その富士通のビルも全部線路でした
小倉跨線橋の写真は富士通の東側ではなくNECの南辺りから小倉陸橋下交差点付近を見下ろしていて現在もバス通りのままですね。古い左に曲がってる線路は今のさいわいふるさと公園の端辺りです。昭和30年代撮影の線路わきのアパートは解体されましたが、1984年の写真の真ん中に写ってる保育所はピンクに塗装されて現在も交差点とNECの間で健在です。
跨線橋のもう少し先だったんですね!線路が無くなっていたので分かりませんでした。今度改めて行ってみます。貴重な情報ありがとうございます
@@time3276左へ逸れる線路は尻手短絡線でしょうね〜 横須賀線が短絡線をオーバーパスするようになったので見えなくなりましたが、現在も線路は存在しますよ!
以前、三菱ふそうの工場からトラックのシャーシを陸送していた事があり(3か月くらいですがw)、新川崎の工場から東扇島のモータープールへ運ぶときに通りました。とても懐かしいです。
5:30 矢印 〈ここに山があります〉の画面①この画面の右側の線路が矢向駅があった南武線②南武線の奥の赤茶の屋根のマンション群が〈パークシティー新川崎〉40年前位に30階建てのビジネス棟2棟とタワーマンション2棟、他、マンション群が出来た。③矢印の手前の陸橋が〈小倉陸橋〉右の道路から左の道路の間が全て線路だった。当時、東洋一の操作場と言われていた〈新鶴見操作場〉である。④矢印の山は〈加瀬山〉で〈夢見ヶ崎〉と、言われている。室町時代、太田道灌が城を作る候補地だったが、城を落とされる夢を見て断念したのが地名の由来。結果的に今の皇居の地に城を作った。⑤昔、この画面の南武線から左側は、川崎市でも横浜市でもなく〈日吉村〉だった。今の日吉駅に〈慶應大学〉ができた時にどこから水を引くかで揉めて、矢上川から東が川崎市に、西が横浜市に編入された。私は南武線と新鶴見操作場の間の小倉陸橋の近くに住んでいたが、役所は〈川崎市日吉支所〉で加瀬山にあった。当時は何故日吉なのかが分からなかった。長くなって申し訳ありません。
なるほど、夢見ヶ崎って昭和ぐらいにつけられた地名だと思ってたけどそんな昔からあってそんな由来があったんですね、でももしここに城ができてたら徳川幕府も川崎にできて皇居も川崎、川崎が首都になってた可能性がワンチャンあったんじゃないんですか。
いつも貴重な映像ありがとうございます。探索お疲れさまでした😄
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo ! ✨✨
昭和30年代頃と1984年頃の写真に写っている小高く見える丘?山?何かで見たことある景色だと思い出してみました。怪奇大作戦の「死を呼ぶ電波」に全く同じ丘?山が映っていました。
富士通さんは2016年まではパイオニアさんでした。
5:18~中央に左右に走る道路橋の端から端までの幅全部が操車場の敷地だったんでいかに広大なスペースだったかがわかりますね祖父がこの当時国鉄としての新鶴見操車場の貨車の制御とかの仕事をしていて本当に不規則な勤務時間と生活でした仕事中に貨車の入れ替えで左腕をほぼ動かせないくらいの怪我をしてしまい退職しましたが去年亡くなりました線路が無数に畝っていて黒い貨車が不気味に屯してた場所も今はずいぶんスッキリ開発されたんだなーと感慨深いです
今でも映像で貨車の入れ替え作業を見ることができますが、本当に危険なお仕事だったんですね。お祖父様に感謝です
動画では小倉こ線橋の東寄りを想定されていますが、他のかたも言われているように、こ線橋西端のT字路付近、富士通の西隣にあるNECのところではないでしょうか?5:40頃にちょうど昭和30年代の写真に隠れてしまう辺りだと思います。
いや懐かしい。矢向忘れかけていたし、衝撃の事件が目の前で・・・(長いので割愛)思い出しました。矢向と夜光があるからね、これも思い出した。
南武線は国鉄時代73系電車が4〜6両で走っていた頃から乗っています。5年位ずつ沿線の風景が変わっていきますね。
矢向駅は南武線で唯一横浜市内にある駅、古い映画「めし」のロケ地になった駅 主演は原節子さん。だったと思います。
矢向在住53年です。昭和30年代の小倉跨線橋写真から夢見ヶ崎公園のシンボル塔が見えてるよ!道路幅拡張しただけでほぼ変わってない。毎日通ってジム通いしてまーす。
1:56 の景色は、小倉陸橋から鶴見方向ではなく新川崎方面を向いた方角であっています。奥に見える山が夢見ヶ崎動物公園の山ですね。ただ小倉陸橋の東端ではなく、西端からの景色です。 坂になってる土手もまだ残っていますし、写真左奥に通じる道は「小倉陸橋下」交差点からの、現在の中央通りです。当時ここには新鶴見操車場(1984年まで使用)があり、端の西端まで線路がありました。東側の線路(湘南新宿ライン)を残して跡地に現在の建物群が立ったのは90年代頃からです。今昔マップon the webで1983~1987年の地図を表示されるとわかりやすいです。
皆様のコメント。。。本当に参考になります。小倉陸橋。かつては富士通、NECネッツエスアイのビルがある辺りまで新鶴見操車場が広がっていたんですね!操車場の廃止による再開発で大きく様変わりしたんですね。。。富士通のビルは当初はパイオニアの本社ビルだったというのも驚きです。
林芙美子の小説めしにも登場する矢向駅。映画にも登場しますね。駅前に王貞治さんのCMで有名になった、亀屋万年堂のお店があります。
奥に見える山は夢見ヶ崎の山だと思いますよ撮影している陸橋の幅全部が新鶴見操車場でしたから
バスは夢見々崎商店街方面から来た様ですね
4:13の場所、まだバスは走ってますです。消え行く旧型電気機関車を撮影したのを覚えてます。
夢見ヶ崎の動物園はちいさいけどいい感じのところですね 無料なのもうれしい
こんにちは神奈川県川崎市幸区矢向駅は
丁度この当時にお付き合いしていた女性の育った町が「鹿嶋田、矢向」でした。埼玉人の私には馴染みのないエリアでした。数回、彼女の親友夫婦のお宅にお邪魔したことがあります。偏見かもしれませんが、当時の川崎はちょっと怖いイメージがありました。まさに旦那さんも奥様(彼女親友)も私のイメージしていた「川崎の人」でした。今から、40年以上前の話です。
1972年5月24日まで 尻手寄りの留置線の所で旅客線と別れ多摩川の畔まで貨物支線が延びていて川崎河岸(かわさきがし)駅と言った駅があり多摩川の上流で採掘された砂利を艀(はしけ)に移し替え東京湾岸の需要者へ運び出していた川崎市側の廃線跡は、さいわい緑道として整備されている
昭和は遠くなりました!
鶴見操作場が出たの、その内、品鶴線を取り上げていただければ嬉しいです
矢向駅を乗降駅として使って川崎市幸区に住んでいました。新鶴見操車場は昼夜兼行で夜中でも貨物列車入れ替えのSLの音が響いていました。C11とかC12。矢向駅にもこれらのSLはいて、武蔵小杉まで通学していた私立小学生だった自分は親しくなった機関士さんに乗せてもらったこともあります。夢見が崎は加瀬山とも呼ばれていて、大きな慰霊塔とお寺と古墳以外は森でした(今は動物公園みたいになっているらしいですが)。名称の由来は、太田道灌が城を建てようとして(ひょっとしたら江戸城?)いたが夢で兎が兜を持ち去ったのでやめたとかいう話しを聞いたことがあります。陸橋付近の道の狭さは相変わらずですね。陸橋の北側は田圃でザリガニをとってました笑。懐かしい少年時代を思い出しました。ありがとう!
成瀬巳喜男の東宝作品「めし」(1951)、実家に帰る原節子の下車駅として矢向駅が登場し
ています。当時の看板の字体は「矢向驛」ですが、看板の位置は85年の写真でも変わらず、
現在に至るまで駅の外観の大枠は70年前とほとんど変わっていません。南武線の駅、結構
変貌した駅もありますが、矢向には戦後直後の形が残っているようです。
コメント欄で知った、矢向だけ川崎じゃないなんて!勉強になりました。😄
乗り換えで鹿嶋田←→新川崎は通勤で使用していましたが、矢向は電車でも自動車でも通過するだけでしたね。
でも駅舎の雰囲気が昔懐かしい感じで好きですよ。😄
富士通の敷地も操車場だったので、バスが通っていたのは、橋の突き当たりの右側だったと思います👍
あのあたりまで操車場だったのですね。貴重な情報ありがとうございます。
今度、改めて確かめに行ってきます
現在も、あのバス道は健在ですね👍
夢見々崎と国鉄新鶴見寮が見えます。
その富士通のビルも全部線路でした
小倉跨線橋の写真は富士通の東側ではなくNECの南辺りから小倉陸橋下交差点付近を見下ろしていて現在もバス通りのままですね。古い左に曲がってる線路は今のさいわいふるさと公園の端辺りです。昭和30年代撮影の線路わきのアパートは解体されましたが、1984年の写真の真ん中に写ってる保育所はピンクに塗装されて現在も交差点とNECの間で健在です。
跨線橋のもう少し先だったんですね!線路が無くなっていたので分かりませんでした。
今度改めて行ってみます。
貴重な情報ありがとうございます
@@time3276左へ逸れる線路は尻手短絡線でしょうね〜 横須賀線が短絡線をオーバーパスするようになったので見えなくなりましたが、現在も線路は存在しますよ!
以前、三菱ふそうの工場からトラックのシャーシを陸送していた事があり(3か月くらいですがw)、新川崎の工場から東扇島のモータープールへ運ぶときに通りました。
とても懐かしいです。
5:30 矢印 〈ここに山があります〉の画面
①この画面の右側の線路が矢向駅があった南武線
②南武線の奥の赤茶の屋根のマンション群が〈パークシティー新川崎〉40年前位に30階建てのビジネス棟2棟とタワーマンション2棟、他、マンション群が出来た。
③矢印の手前の陸橋が〈小倉陸橋〉右の道路から左の道路の間が全て線路だった。当時、東洋一の操作場と言われていた〈新鶴見操作場〉である。
④矢印の山は〈加瀬山〉で〈夢見ヶ崎〉と、言われている。
室町時代、太田道灌が城を作る候補地だったが、城を落とされる夢を見て断念したのが地名の由来。結果的に今の皇居の地に城を作った。
⑤昔、この画面の南武線から左側は、川崎市でも横浜市でもなく〈日吉村〉だった。
今の日吉駅に〈慶應大学〉ができた時にどこから水を引くかで揉めて、矢上川から東が川崎市に、西が横浜市に編入された。私は南武線と新鶴見操作場の間の小倉陸橋の近くに住んでいたが、役所は〈川崎市日吉支所〉で加瀬山にあった。当時は何故日吉なのかが分からなかった。
長くなって申し訳ありません。
なるほど、夢見ヶ崎って昭和ぐらいにつけられた地名だと思ってたけどそんな昔からあってそんな由来があったんですね、でももしここに城ができてたら徳川幕府も川崎にできて皇居も川崎、川崎が首都になってた可能性がワンチャンあったんじゃないんですか。
いつも貴重な映像ありがとうございます。探索お疲れさまでした😄
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo ! ✨✨
昭和30年代頃と1984年頃の写真に写っている小高く見える丘?山?
何かで見たことある景色だと思い出してみました。
怪奇大作戦の「死を呼ぶ電波」に全く同じ丘?山が映っていました。
富士通さんは2016年まではパイオニアさんでした。
5:18~
中央に左右に走る道路橋の端から端までの幅全部が操車場の敷地だったんでいかに広大なスペースだったかがわかりますね
祖父がこの当時国鉄としての新鶴見操車場の貨車の制御とかの仕事をしていて本当に不規則な勤務時間と生活でした
仕事中に貨車の入れ替えで左腕をほぼ動かせないくらいの怪我をしてしまい退職しましたが去年亡くなりました
線路が無数に畝っていて黒い貨車が不気味に屯してた場所も今はずいぶんスッキリ開発されたんだなーと感慨深いです
今でも映像で貨車の入れ替え作業を見ることができますが、本当に危険なお仕事だったんですね。お祖父様に感謝です
動画では小倉こ線橋の東寄りを想定されていますが、
他のかたも言われているように、こ線橋西端のT字路付近、
富士通の西隣にあるNECのところではないでしょうか?
5:40頃にちょうど昭和30年代の写真に隠れてしまう辺りだと思います。
いや懐かしい。矢向忘れかけていたし、衝撃の事件が目の前で・・・(長いので割愛)思い出しました。矢向と夜光があるからね、これも思い出した。
南武線は国鉄時代73系電車が4〜6両で走っていた頃から乗っています。5年位ずつ沿線の風景が変わっていきますね。
矢向駅は南武線で唯一横浜市内にある駅、古い映画「めし」のロケ地になった駅 主演は原節子さん。だったと思います。
矢向在住53年です。昭和30年代の小倉跨線橋写真から夢見ヶ崎公園のシンボル塔が見えてるよ!道路幅拡張しただけでほぼ変わってない。毎日通ってジム通いしてまーす。
1:56 の景色は、小倉陸橋から鶴見方向ではなく新川崎方面を向いた方角であっています。
奥に見える山が夢見ヶ崎動物公園の山ですね。
ただ小倉陸橋の東端ではなく、西端からの景色です。 坂になってる土手もまだ残っていますし、写真左奥に通じる道は「小倉陸橋下」交差点からの、現在の中央通りです。
当時ここには新鶴見操車場(1984年まで使用)があり、端の西端まで線路がありました。東側の線路(湘南新宿ライン)を残して跡地に現在の建物群が立ったのは90年代頃からです。
今昔マップon the webで1983~1987年の地図を表示されるとわかりやすいです。
皆様のコメント。。。本当に参考になります。
小倉陸橋。かつては富士通、NECネッツエスアイのビルがある辺りまで新鶴見操車場が広がっていたんですね!
操車場の廃止による再開発で大きく様変わりしたんですね。。。
富士通のビルは当初はパイオニアの本社ビルだったというのも驚きです。
林芙美子の小説めしにも登場する矢向駅。映画にも登場しますね。
駅前に王貞治さんのCMで有名になった、亀屋万年堂のお店があります。
奥に見える山は夢見ヶ崎の山だと思いますよ
撮影している陸橋の幅全部が新鶴見操車場でしたから
バスは夢見々崎商店街方面から来た様ですね
4:13の場所、まだバスは走ってますです。消え行く旧型電気機関車を撮影したのを覚えてます。
夢見ヶ崎の動物園はちいさいけどいい感じのところですね 無料なのもうれしい
こんにちは神奈川県川崎市幸区矢向駅は
丁度この当時にお付き合いしていた女性の育った町が「鹿嶋田、矢向」でした。埼玉人の私には馴染みのないエリアでした。数回、彼女の親友夫婦のお宅にお邪魔したことがあります。偏見かもしれませんが、当時の川崎はちょっと怖いイメージがありました。まさに旦那さんも奥様(彼女親友)も私のイメージしていた「川崎の人」でした。今から、40年以上前の話です。
1972年5月24日まで
尻手寄りの留置線の所で
旅客線と別れ多摩川の畔まで
貨物支線が延びていて
川崎河岸(かわさきがし)駅と言った
駅があり多摩川の上流で
採掘された砂利を艀(はしけ)に
移し替え東京湾岸の需要者へ
運び出していた
川崎市側の廃線跡は、さいわい緑道
として整備されている
昭和は遠くなりました!
鶴見操作場が出たの、その内、品鶴線を取り上げていただければ嬉しいです